【メモ・備忘録】ブライダル産業に頼らない結婚式 その1
―はじめに
「ブライダル産業には乗っかりたくない」
ところからはじまった我々の結婚式
話し合いの結果
結婚式は親族だけでやって、
友達だちは後日パーティーでもしようということで決定
ーと、その前に
カンボジアでの結婚式に参列したが、日本とは違い、自由な雰囲気でとても良かった
自宅が結婚式の挙式会場&写真スタジオになる
儀式は早朝から行われ、近所の方や親族が参列し、朝ごはん・昼ごはんもいただく
会場を変えて夜はパーティー
テーブルに揃ったところから食事を取り始め、ある程度食べ終わり、およそ人数が揃ったところで新郎新婦の入場がはじまる
その後はダンスパーティー会場を化す
他の国の結婚式に行った人の話を聞いても、割と自由でカジュアルな感じの内容が多かった
さて、本題
ー神社で挙式をすることについて
イベントなどで縁のあったA神社で友人2組が挙式をしたのを見たときに(身内のみ)
「誰もが自由に普段着で気軽に見に来れる」のが良いなぁと思っていたので、
「神社で挙式」は当初から候補に入っていた
当初はこのA神社で挙げたいと思っていたが
相方が自宅の氏神さまであるB神社の夏祭りに参加したことから、
「B神社がいい」
ということになり、空間的にはA神社が好みだったけど、
親族の人数を改めて数えてみたり(A神社の本殿は割とせまい)
神社に行ってみたりして
最終的には「B神社」で合意
ーB神社へのファーストコンタクトまで
家を借りたのに、家が合わず、半年で引っ越してしまったり
メンタル的にも結婚そのものについて考える余裕がなかった
(その前に入籍日さえあやふやだったこの頃)
2015年秋に入籍&新しい家に引っ越ししたことで、
「結婚式」について考える余裕が生まれる
2015年12月上旬 結婚式の時期をきめる
気候と(直前や前日など、仕事が休みやすい)スケジュールを考慮して3月中に決定
2015年12月中旬 神社ファーストコンタクト(相方)
相方が神社に挙式について聞きに行く(ノーアポ)
空いている日とパンフレット(価格表)を持って帰宅
挙式費用は○○万円
その他更衣室の貸し部屋代などが別途費用としてかかる
衣装、カメラは提携?繋がりのあるところのパンフレットをもらってくるが、
絶対にそこを選ばなければならないということはない
外部業者の持ち込み料不要
また、新郎新婦の服装は必ずしも衣装である必要はなく、礼服でもOK
その後、親族(主に親きょうだい)に日程確認をし、候補日を確定し、
改めて電話で(相方が)アポを取り2人でいくことに
*** その2に続く
写真を展示してみる
親しくさせてもらってるカフェで写真を展示することに
ほんの思い付きと勢いだけで
ただ写真を飾るにはおもしろくないなぁと思い、メディウムという油絵につかう画材とたまたま家にあったキャンバスを使って写真を転写
ちょっと絵のような雰囲気に
もう少し、練習あるのみ
大量に現像した中からお店にあるフレームの数から更に厳選
カフェの方からのありがたいアドバイスとサポートにより何とか形に。
ライティングも
私が2011年からちょくちょく訪れているカンボジアの首都プノンペンの写真を展示しています
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Phnom penh Report
10/4~11/4(水曜定休・10/23は貸し切りのイベントがありますので、それ以外にお越しください)
カフェですのでワンオーダーお願いします。 からだに優しいグルテンフリーのおやつやドリンクなど。※個人的にはクッキーと米粉ワッフルがおすすめ
講演会かと思ったら・・・
近所で団地のトークがあるということで、近くなので行ってみた
会場に到着して、ふと見ると座席配置からしてこれは・・・
あぁワークショップ・・・
講演会行ったら話し合いもさせられた市民の1人になってしまったわ(笑)
全8回のワークショップを開催され、まず市の魅力や資源となるものに関する講演やお話のあと、ワークショップが行われており、私が参加したのはその1回だった。
市の総合計画のためのワークショップで、企画運営を某大手コンサルさんがされている様子。
1テーブル4名のワールドカフェ方式
1ラウンド15分×3 1ラウンドが終わると1人残して他のテーブルへ。2ラウンド目は前のテーブルにいた人と出会わないようにして、再度話し合い。そして、3ラウンド目は1ラウンド目と同じテーブルに戻って振り返りながら話し合い。
各テーブルには仕掛け人ではないけれど、役所の職員で市の在住者や市内の学生が混じっていて、だいたいのテーブルには仕掛け人的な人が残っていた。
4人だとファシリテーターがいなくても話が分断することが少ないので、進行しやすい
ワールドカフェだと明確な時間刻みが見えているので、ダラダラと話してしまうこともない
それでもペンの色とか細かいルールを言う人がいたり(好きな色使わせてくれよ!)
人の話を奪う人がいたり、、、(あんたに聞いてない!)
仕事柄勉強になったわ~~
畑あそび
母の実家は元農家であり、田畑を(少しだけど)所有している
長らく祖父母が「家族の分だけ」作っていたが、それも難しくなった頃、
父が定年し、時間に余裕ができたことから、父による野菜づくりスタート
たまたま、仲良くなった友人が「畑を探している」という一言から
「友人を誘う」ことになり、その後家族で行きたいという友人が来るようになる
さらにママ友繋がりで様々なファミリーが2,3年まえから訪れるようになってきた
いも掘って、他の野菜も採って、バーベキューして、
都会に暮らし、土に触れることもあまりない子ども達が
遊具がなくても自由に遊びまわる光景
カエルいじくりまわして、、、カエルもいい迷惑かもしれないけど
にぎやかにわいわい
彼らが大人になって「畑行ったね、楽しかったよね」って同窓会とかで思い出してもらえたらいいな
少なくとも彼らにとっても「私」というひとが生きていたという証にもなるから
ただ、逆にいえば子どものいない友人を誘いづらいくなったのも事実・・・
次はおとなだけバージョンもやろうかな
【メモ】空堀の記憶9/15
「空堀の記憶」今回は商店街にある薬局の93歳の現役薬剤師のSさんによる商店街のお話。
昭和22年に同じ薬剤師のご主人が薬局を空堀商店街に開業したと同時に24歳で京都からお嫁に来られたSさん。
薬局の建物は、戦後に建てられた2軒つながりの長屋で、隣(現在はお茶屋さん)は、開業当初は氷屋さんがあったが、その後すぐダンスホール(?教室?社交ダンスが流行っていた頃で、レッスンらしき音がしていたが、中はみたことがないそう)になっていた。横の路地奥にはベッコウ細工職人の工場があったと記憶しているが、若かったので工場を覗いたりしたことはなかったそう。
当時、空堀商店街には、
薬局が上町筋まで数えると10件、豆腐屋さん八百屋さん魚屋さんも商店街の中に今は1~2件あるぐらいだけど、当時は5~6件ずつあった。荒物(小間物)屋さんには台所用品をはじめとする生活用品が揃っていて便利だったこと、
商店街からすぐのところに大きな銀杏の木があり、その先に「銀杏湯(いちょうゆ)」というお風呂屋さんがあったこと
嫁いだ当初は松屋町筋から先はまだ焼け野原で大丸とそごう、ぽつぽつと蔵が残っているのが見えていた。また、戦前にあった市場や商店街が焼けてしまったので、周辺の人は焼け残った空堀に買い物にみんなが来ていた。空堀商店街は、いつもたくさんの人で賑わっていた。
モノがなかった時代だったので、仕入れたらすぐ売れるから、あまり商売がわからなくてもなんとか生活は成り立っていた。
各お店の定休日は3が日や特別な日以外なく、徐々に定休日が増えていったが、日曜日が休みになったのは昭和55年ごろ~。
薬局では、お客さんの症状に合わせた薬の調合、処方、相談に乗ったりしていた。お客さんは近所の人が中心で印刷業の方が多く来ているようだった。住んでる方の大半が家内工業で路地のあちこちから機械の音が聞こえていた。これらの工場は、すでに駄菓子やおもちゃの卸問屋街になっていた松屋町に卸す箱の印刷や包装資材の業種が多かった。
昭和30年代にオート3輪(ミゼット)が普及するまでは、馬や牛による荷物運搬が一般的だった。
若い頃は、ほぼ休みなしの商売に加え、家事育児と多忙であまり周りをみる余裕はなかったと仰られており、当時、女性の1日の労働というのは現在の私たちの想像以上に大変だったことが伺えた。
空堀の記憶は今回で3回目だったが、前回の戦争のお話とも繋がることがあり、連続参加したことで、より話が立体的に繋がり面白かった。
前回の空堀の記録レポートはこちら
電車で忘れ物をしたら・・・
つかれたー
買い物したかったけど、つかれたし、帰ろう
そんな矢先
乗り変えた時、な に か た り な い
サブバッグがない!
あーーー網棚じゃないのに、椅子の上に置いてきてしまった。
最寄駅のインフォメーションで忘れ物の件を伝えると、
インフォメーションの方が、その電車の停車駅各駅に問い合わせしてくれ
確認したところ、、、
結局、見つかった駅が最初に乗っていた電車の終点だったので
「取りに行ってください」とのこと
あーーーまじか―ーーー
学生時代、その日提出の模型を電車に忘れてしまったときは、
届け出たあと、駅員さんが網棚で救出してくれ、
(たまたま後続にあった)特急で届けてくれたけど、
今はそうもいかないのね。
それなら気付いた駅で降りて言えばよかったわw
同じ駅2往復した(==;)
つかれたし、最寄駅で一服でもしようかと思ったけどそんな時間もなかった
と思ったら愛読しているブログにもこのような投稿が・・・
はっ!
↓↓↓そしてまさに今回のわたしは、こちらの状態↓↓↓
私が乗っていた鉄道会社の場合は改札の所にインフォメーションがあり、
改札を出ずに忘れ物を受け取れたのが違うぐらいで
身分証明証&受け取り書の記入(住所氏名電話)は同じ。
気をつけよ。ほんと。
【メモ】空堀の記憶9/2
ここで、大阪市の町並み修景事業である「空堀地区HOPEゾーン協議会」が地域住民とまちづくり活動代表者らに
より発足し、10年間の事業終了とともに「空堀まちなみ井戸端会」の愛称を正式団体名としてソフト事業のみを
継続することとなった。
そこで2016年8月よりはじまった新しい企画「空堀の記憶」
9月2日に開催された「71年前の空堀」というテーマで鰹節の丸与商店のご主人Oさん(87歳)をゲストに、
戦中の空堀の様子についてお話された。
まず、見せて頂いたのは、昭和22年ごろにつくられた「大阪戦災地図」
地図上には戦災で焼けた部分が赤く塗られており、大阪市の中心部は、空堀の周辺部だけが広範囲に白く残っている。
さて、まずOさんについて
お店は250年前、江戸時代に現在地から少し離れた松屋町にて創業。
当時は、鰹節というよりも乾物屋であったのではと推察される。削り節が出た頃に鰹節など出汁で扱うモノが
メインとなったそうである。松屋町にあったお店が昭和9年に道路拡幅のため立ち退きになり、
一旦は、
地蔵坂の近く(大阪市立
現在の空堀商店街の中に落ち着いたそうである。
子ども時代の記憶には、昭和9年室戸台風の時にラジオで風速60メートルというのが聞こえた後、周辺の家の
屋根の上に設置されている物干しが飛んでいってるのを見た覚えがある。
昭和10年代の大阪は、大大阪と呼ばれている頃で、水道、ガス、電気が一般家庭にも通っていた。(全部ではない)
電気は主に照明器具が家庭に普及していた。変電所で古い電球を持っていくと新品に交換してくれる。
尋常高等小学校にて、
昭和16年から戦争になり、中学校の授業では、軍司教練(銃を持ってほふく前進、敬礼など)が中心であった。
大正区にある大運橋の近くの工場に市電で通ってい
戦争始まった当初はまだモノがあったが、金額統制により、モノの金額が決められていたが、まだ
商売は成り立っていた。しかし、その後、モノがなくなっていき、配給制となり、商売が成り立たなくなる。
戦争が始まった当初(昭和16年~19年)は、配給といっても米1日2合程度あったが、昭和20年になると食糧が
尽きてくると、もっと食べるものがなかった。戦後しばらくは、進駐軍(主に米軍)からの食糧配給であった。
他に、衣類も切符で個人で持てる量を決められていた。服というよりも主に下着であった。
昭和20年に大阪大空襲があった。
それ以前から空襲対策に家を暗くする、防空壕を作る、
焼夷弾は木造家屋を燃やすために投下された。
爆弾は、甲高い音をして落ちてきた。
その頃は一週間おきぐらい、
家の裏にも焼夷弾が1発だけ落ちたが、
1番大きな空襲で松屋町の近くまで火が来た。
なかなか潰
火が止まった時には、
水道はあったが空襲であちこちの水道管が破裂し、
終戦の前日に大阪城にある砲兵工場が爆撃された。
在日朝鮮人や中国人が商売をしていた。
昭和24年に統制経済が解除し、25年に中央市場が再開された。
この頃から商売再開。自転車で買い付けに行っていた。
お話のあと、かみなり亭で軽く打ち上げ