【メモ】空堀の記憶9/2
ここで、大阪市の町並み修景事業である「空堀地区HOPEゾーン協議会」が地域住民とまちづくり活動代表者らに
より発足し、10年間の事業終了とともに「空堀まちなみ井戸端会」の愛称を正式団体名としてソフト事業のみを
継続することとなった。
そこで2016年8月よりはじまった新しい企画「空堀の記憶」
9月2日に開催された「71年前の空堀」というテーマで鰹節の丸与商店のご主人Oさん(87歳)をゲストに、
戦中の空堀の様子についてお話された。
まず、見せて頂いたのは、昭和22年ごろにつくられた「大阪戦災地図」
地図上には戦災で焼けた部分が赤く塗られており、大阪市の中心部は、空堀の周辺部だけが広範囲に白く残っている。
さて、まずOさんについて
お店は250年前、江戸時代に現在地から少し離れた松屋町にて創業。
当時は、鰹節というよりも乾物屋であったのではと推察される。削り節が出た頃に鰹節など出汁で扱うモノが
メインとなったそうである。松屋町にあったお店が昭和9年に道路拡幅のため立ち退きになり、
一旦は、
地蔵坂の近く(大阪市立
現在の空堀商店街の中に落ち着いたそうである。
子ども時代の記憶には、昭和9年室戸台風の時にラジオで風速60メートルというのが聞こえた後、周辺の家の
屋根の上に設置されている物干しが飛んでいってるのを見た覚えがある。
昭和10年代の大阪は、大大阪と呼ばれている頃で、水道、ガス、電気が一般家庭にも通っていた。(全部ではない)
電気は主に照明器具が家庭に普及していた。変電所で古い電球を持っていくと新品に交換してくれる。
尋常高等小学校にて、
昭和16年から戦争になり、中学校の授業では、軍司教練(銃を持ってほふく前進、敬礼など)が中心であった。
大正区にある大運橋の近くの工場に市電で通ってい
戦争始まった当初はまだモノがあったが、金額統制により、モノの金額が決められていたが、まだ
商売は成り立っていた。しかし、その後、モノがなくなっていき、配給制となり、商売が成り立たなくなる。
戦争が始まった当初(昭和16年~19年)は、配給といっても米1日2合程度あったが、昭和20年になると食糧が
尽きてくると、もっと食べるものがなかった。戦後しばらくは、進駐軍(主に米軍)からの食糧配給であった。
他に、衣類も切符で個人で持てる量を決められていた。服というよりも主に下着であった。
昭和20年に大阪大空襲があった。
それ以前から空襲対策に家を暗くする、防空壕を作る、
焼夷弾は木造家屋を燃やすために投下された。
爆弾は、甲高い音をして落ちてきた。
その頃は一週間おきぐらい、
家の裏にも焼夷弾が1発だけ落ちたが、
1番大きな空襲で松屋町の近くまで火が来た。
なかなか潰
火が止まった時には、
水道はあったが空襲であちこちの水道管が破裂し、
終戦の前日に大阪城にある砲兵工場が爆撃された。
在日朝鮮人や中国人が商売をしていた。
昭和24年に統制経済が解除し、25年に中央市場が再開された。
この頃から商売再開。自転車で買い付けに行っていた。
お話のあと、かみなり亭で軽く打ち上げ