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空堀の記憶2019.03.13

空堀の記憶』の記録は、Y田K子さん91歳のお話。90年という人生は長いようでいてあっという間だったとのこと、90歳まで目指せるかな!?

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Y田さんは、奈良の片田舎で生まれ育ち、近所の人が世話をしてくれてのお見合い結婚で昭和24年に空堀自転車屋さんへお嫁入り。結婚当初は、谷町筋空堀商店街の交差点から2,3軒西の辺りで大正時代の長屋(自転車屋さん)で暮らす。
昭和20~30年代の空堀商店街や商店街界隈は大変賑わっており、年末は人でごった返していて、とても自転車では通れないぐらい。商店街には、魚屋さんが多数あり、魚やイカを店頭で焼いて売っているのでおいしそうなにおいがあちこちでしていた。醤油屋があり、醤油の仕込みもやっていた。桶屋さんへは、お櫃が外れたらよく修理してもらっていた…
などなど、昭和の商店街についてのお話は尽きず◎

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この20年間で空堀界隈の人口や子どもの人数が増えたように思うけれど、昭和20年代、30年代は小学校の児童が1,000人近かったという話で、今は統廃合したけれど、当時は4小学校だったということになると単純に4倍近くの子どもがいたとなると…やっぱり子どもが多く、スーパーなどない時代、商店のあるところも限られていて、日常の買い物に商店街に集まってくる人も多かったのか。

 

Y田さんを語る上でもう1つ欠かせないのがボランティアのこと。社会福祉指導センターで「こども文庫」が始まった時、ボランティアに声かけられ、関わりはじめる。

そのあと、島之内に図書館開館したのでこども文庫は閉められることになったが、ボランティア活動は26年間続けられた。

 

他にも社会福祉指導センターでは詩吟のグループに誘われたので、始めることになった。

最初はすぐ辞めようと考えておられたようですが、やりたい(吟じてみたい)唄が多いことを知り、意欲的に取り組まれるうち、今はお師匠さんとして教えておられるぐらい。


他にも、連合の役員(婦人部長)を昭和55年までされていた。

その後、町会のボランティア募集回覧を見て、知人を誘って誘って関わるようになった。配食サービスという高齢者の方にお弁当を配布するボランティアはかなり長く関わっていた。社会福祉協議会のボランティアも関わっていたが今は足が悪くなっているので、ボランティア控えめにしているようだけど、まだまだお元気そう◎

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