piyokoworks

つくる、はたらく、うごく、たのしむ

空堀の記憶2018.09.07

空堀の記憶2018.09.07』聞き書きメモ


堀江で育ち、昭和28年に安堂寺へお嫁に来てからずっと安堂寺で暮らしているTさん(88歳)の風景を中心に。

 

 

Tさんの実家の商売は洋服屋さん。今の堀江のオレンジストリート沿いだった。堀江では、2階の窓を開けたら家具屋さんがたくさん見えた。

西区にある小学校卒業し、疎開のため福井の女学校入学。生家は昭和20年3月13日夜の大阪空襲で焼けてしまう。

(ちなみに、戦争で焼けて更地になってしまった土地は自分のところに戻らず、知らない人が勝手に畑やバラックを建てたりしていることもあった。証拠の書類も多くは焼けてしまい、取ったもの勝ち状態だった。)

戦後実家は郊外の方へ移った。

安堂寺は空襲で焼けなかったことやTさんの旦那さんやお義父さんが写真好きだったこともあり、たくさんの写真が残っていた。

空堀中心のあたりとは違い、安堂寺にはお地蔵さんはほとんどなく、戦争で焼けなかったのは「榎大明神(えのきさん)のおかげ」だという。

結婚した時はトラックで家財道具を運び、花嫁衣装を着て車で安堂寺のT家へ。当時の花嫁衣装は白ではなく、黒地の着物。

f:id:piyokoworks:20180914131149j:plain

 

新婚旅行は福井の親戚周り。新婚旅行の間に家族がお嫁さんが持参した花嫁道具や着物を広げてご近所さんに見せていた。当時はそんなことをされていることも知らなかった。

後々写真を見て初めて知った、とのこと。

↓この写真

f:id:piyokoworks:20180914131428j:plain

Tさんが持って来てくれた旦那さん、お義父さんの卒業アルバムには桃園公園になっている場所にかつては桃園小学校があった。

↓大正の頃は、第一桃園尋常小学校で木造校舎

f:id:piyokoworks:20180914130235j:plain

 

↓戦前には桃園國民學校高等科となり鉄筋コンクリート校舎へと。

f:id:piyokoworks:20180914130246j:plain

T家として、約80年間暮らしていた長屋も、15年前にタワーマンション建設で立ち退きになり、現在は同じ安堂寺通りの別の家で暮らしている。

オイルショックなどで家業だけでは難しい頃に知人から誘いを受けて、生保の営業の仕事をするようになり、68歳まで23年間空堀界隈の企業にも営業や集金に回っていた。昭和の終わり頃から保険屋さんにとっていい時代だった。

谷町筋が今よりも狭かった頃は商店街も一本の筋で繋がっていた。谷町筋の道幅が広がり、なんとなく行き来しづらくなった。

戦前戦後には自動車よりも馬車が多く走っていて、ところどころに馬の水飲み場(防火用水)と馬をつなぐところがあった。馬には水を、人には麦茶接待があったらしく、少し塩気のある麦茶だった(Oさん)。町会で麦茶接待の世話する人がいた。

デートコースは梅田から難波まで歩く。当時は信号もなかったし、ゆったりしていた。銀ブラに対抗して「心ブラ」という言葉もあった。

地下鉄第1号は梅田〜心斎橋間。しばらくは市電も同時に走っていたが、そのうち市電がなくなる。市電の運賃は6銭。

 

持ってきて下さったのは

「落下傘ニュース」のコピーと戦中の新聞コピー

これを読むと、やっぱり戦争は嫌だなって思う。

f:id:piyokoworks:20180914130612j:plain

f:id:piyokoworks:20180914130623j:plain