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【メモ】空堀の記憶9/15


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空堀の記憶」今回は商店街にある薬局の93歳の現役薬剤師のSさんによる商店街のお話。

 


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昭和22年に同じ薬剤師のご主人が薬局を空堀商店街に開業したと同時に24歳で京都からお嫁に来られたSさん。

 
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薬局の建物は、戦後に建てられた2軒つながりの長屋で、隣(現在はお茶屋さん)は、開業当初は氷屋さんがあったが、その後すぐダンスホール(?教室?社交ダンスが流行っていた頃で、レッスンらしき音がしていたが、中はみたことがないそう)になっていた。横の路地奥にはベッコウ細工職人の工場があったと記憶しているが、若かったので工場を覗いたりしたことはなかったそう。

 

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当時、空堀商店街には、

薬局が上町筋まで数えると10件、豆腐屋さん八百屋さん魚屋さんも商店街の中に今は1~2件あるぐらいだけど、当時は5~6件ずつあった。荒物(小間物)屋さんには台所用品をはじめとする生活用品が揃っていて便利だったこと、

商店街からすぐのところに大きな銀杏の木があり、その先に「銀杏湯(いちょうゆ)」というお風呂屋さんがあったこと

 

嫁いだ当初は松屋町筋から先はまだ焼け野原で大丸とそごう、ぽつぽつと蔵が残っているのが見えていた。また、戦前にあった市場や商店街が焼けてしまったので、周辺の人は焼け残った空堀に買い物にみんなが来ていた。空堀商店街は、いつもたくさんの人で賑わっていた。

モノがなかった時代だったので、仕入れたらすぐ売れるから、あまり商売がわからなくてもなんとか生活は成り立っていた。

各お店の定休日は3が日や特別な日以外なく、徐々に定休日が増えていったが、日曜日が休みになったのは昭和55年ごろ~。

 

薬局では、お客さんの症状に合わせた薬の調合、処方、相談に乗ったりしていた。お客さんは近所の人が中心で印刷業の方が多く来ているようだった。住んでる方の大半が家内工業で路地のあちこちから機械の音が聞こえていた。これらの工場は、すでに駄菓子やおもちゃの卸問屋街になっていた松屋町に卸す箱の印刷や包装資材の業種が多かった。

 

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昭和30年代にオート3輪(ミゼット)が普及するまでは、馬や牛による荷物運搬が一般的だった。

 

若い頃は、ほぼ休みなしの商売に加え、家事育児と多忙であまり周りをみる余裕はなかったと仰られており、当時、女性の1日の労働というのは現在の私たちの想像以上に大変だったことが伺えた。

 

空堀の記憶は今回で3回目だったが、前回の戦争のお話とも繋がることがあり、連続参加したことで、より話が立体的に繋がり面白かった。

 

 

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前回の空堀の記録レポートはこちら